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【平成の未解決事件】100人以上が犯人を目撃しているのに捕まらない殺人犯!

池袋駅構内大学生殺人事件

 

こんにちは! みなさんは、何か事件を目撃したことってありますか? そんなことって、滅多にあるこではないですよね!

 

今回は、なんと! 100人以上の人々が目撃していたのに、未だ捕まっていない殺人犯のお話をご紹介させていただきます。

 

池袋の悲劇

 

1996年4月11日、午後11時30分池袋駅、そのホームを歩く1人の男性がいました。

 

小林 悟さんの画像

彼の名前は、「小林 悟」さん(当時21歳)の立教大生で就職セミナーに行った帰りでした。

 

『おいっ! 待てよっ! テメーっ!』

 

悟さんに、サラリーマン風の男性が突っかかってきます。

 

そこから2人は口論になりました。

 

そして、男の平手打ちが悟さんに命中し、その衝撃で勢いよく後ろに倒れてしまいます。

 

ただ、打たれただけなら、ただ、倒れただけなら、不運のケガで終わっていたのですが、悟さんがぶつかったのはなんと!

 

点字ブロックの突起だったのです!

 

しかも後ろ向きに倒れたため、強い衝撃は急所の後頭部を襲いました。

 

悟さんはスグに救急車で病院に運ばれます。

 

そしてその5日後、悟さんは命を落とすのです!

 

犯人は、悟さんを襲った後、そのまま逃げるように電車に乗りました。

 

そして、日暮里駅まで向かったのですが、目撃情報はそこで途絶えてしまうのです。

 

日暮里で降りたのか? その先に進んだのか? わからないまま・・・

 

ですが、目撃情報は他にもありました。

 

事件が起きたのは、池袋駅のホームでしかも終電間際の時間だったため、現場には100人以上の人が居合せていたのです。

 

池袋駅構内大学生殺人事件犯人の似顔絵

 

そこで、目撃者の証言をすり合わせ、詳細な似顔絵を作成したのです。

 

特にポイントとなったのは、右目尻にある3箇所の古キズです。

 

この情報を基に警察は決死の捜査を始めます。

 

突然の邂逅

 

小林 邦三郎さんの画像

亡くなった悟さんのお父さん、「小林 邦三郎」さん(当時60歳)は、警察に甚大な協力を行います。

 

『何の罪もない息子の命を奪った犯人は許せない』

 

邦三郎さんは、執念を燃やしていたのです。

 

ここで確認しておきたいのが、事件時、悟さんに落ち度はなかったのか?という部分です。

 

彼は当日、就職セミナーに行き、そのまま友達と飲みに行きました。

 

お酒が入り、酔っぱらったのです。

 

しかし、二次会に行ったカラオケでは、お酒は飲まず、帰る際にはほぼ酔いが覚めていたというのです。

 

また、普段から少し内気なところがあり、人見知りだったといいます。

 

そんな悟さんが、見ず知らずの人間とトラブルを起こすとは到底考えられないのです。

 

このような事情もあり、父、邦三郎さんは、自らも犯人究明に動き出します。

 

池袋駅構内大学生殺人事件犯人の似顔絵

そして、事件解決を呼びかけるポスターを制作するのですが、その数なんと! 20万枚!

 

さらに、事件の有益な情報には懸賞金を設定するのです。

 

その額は当初200万円だったのですが、年月の経過によって増額し、最終的は、1000万円になったんです!

 

そんな中、事件発生から1ヶ月後の1996年5月、衝撃的な展開が邦三郎さんを襲います。

 

それは、北千住駅を歩いている時のことです。

 

目の前をある男が横切りました。

 

その人物の顔をはっきりとは見れなかったのですが、邦三郎さんの直感が告げます。

 

「似顔絵の男だ」

 

すると、

 

『ねえ、この前のテレビ見た? あの人、頬にキズあったよね?』

 

すれ違った主婦もこのような会話をしました。

 

「犯人に違いない」

 

邦三郎さんは、確信して尾行を始めます。

 

常磐線の改札を通り、電車に向かって縦に歩く2人。

 

すると、

 

『バカヤローっ!』

 

男が突然叫んだのです。

 

どうやら誰かと電話をしており、相手を怒鳴りつけているというのです。

 

そして、電車に乗ってからは、ひたすら窓の方を向いていました。

 

まるで、あまり顔を見られたくないかのように・・・

 

男は柏駅で電車を降りました。

 

実は、柏は事件後に犯人を見たという目撃証言があった場所なのです!

 

邦三郎さんの緊張も高まります。

 

すると、男は改札を出て売店でビールを購入、そして、すぐさま飲み干し、再び改札を通って電車に乗ります。

 

男は、我孫子方面へ向かって歩いて行きました。

 

と、その時、電車が到着し大勢の人が降りて行きます。

 

その群衆の波にのまれ、男は行方をくらましたのです。

 

邦三郎さんは、犯人が柏と我孫子の間に住んでいると推理しました。

 

その理由は、定期券を使っていたからです。

 

ですがなぜ? 定期券の利用者だとわかったのでしょうか?

 

現在は多くの人がSuicaなどの交通系ICカードを利用しています。

 

そのため、遠目に見ただけでは、定期券で改札を通過したのか? 事前に入金したお金を使ったのか? 判断がつきません。

 

ですが、当時は切符の時代です。

 

そして、切符と定期券は、そのデザインや改札の通り方が異なるため、傍目に見ても判断がつくのです。

 

そこで、邦三郎さんは、会社に休みを申請し、柏駅から我孫子駅の間を張り込みます。

 

そして、張り込むこと1週間、犯人は2度と姿を現しませんでした。

 

ですが、希望はまだ残されていました。

 

邦三郎さんは、警察に通報しており、駅構内の監視カメラの映像が記録されたテープを入手します。

 

実は、この1996年にはまだ電車内に監視カメラはなかったのですが、前年に地下鉄サリン事件が発生していた影響で駅構内にはカメラが設置されていたのです。

 

「ようやく犯人を映像に残すことができた」

 

緊張と興奮が入り混じりながらテープを再生します。

 

すると、そこに映っていたのは、尾行した翌日の映像だったのです。

 

取り寄せるタイミングが1歩遅れ、テープにはすでに翌日の映像が重ね撮りされてしまっていたのです。

 

そこから、捜査の進展はストップし、有益な情報も集まらず、時間だけが経過していきます。

 

そして時は過ぎ、2002年、この事件はとうとう書類送検。

 

それはつまり、事実上の降参でした。

 

一体なぜ? 警察は解決を諦めたのか?

 

この年は、事件から6年が経過していました。

 

それはつまり、翌年にある措置がとられることを意味していたのです。

 

その措置とは、時効

 

邦三郎さんの想い

 

一体なぜ? 犯人は、7年で時効なのか?

 

そのポイントは、悟さんの死因でした。

 

彼が亡くなったのは、後頭部を点字ブロックで打撲したため、つまり、犯人による平手打ちはあくまで、亡くなるきっかけを作っただけの間接的要因であり、犯人が殺害したわけではないという見方がとられたのです。

 

そのため犯人は、殺人罪ではなく、傷害致死罪となりました。

 

そしてその罪では、7年で事項が成立してしまうのです。

 

それを邦三郎さんが、許すわけがありません。

 

署名を集め、法務省に時効の延長を求める嘆願書を提出します。

 

ですが、こういった公の重要書類には審議には時間がかかります。

 

あっという間に時は過ぎ、2003年7月に時効1ヶ月前、犯人の罪は、傷害致死罪から殺人罪に変更されて、時効が15年に延びたのです。

 

嘆願書とともに提出した署名、それは、邦三郎さんが汗をかいて走り回った努力の結晶なのです。

 

最終的に集まった署名の数はなんと! 3万5000人分

 

こうして再び捜査が始まりました。

 

しかし、やはり手掛かりは見つからず、あっという間に2010年になり、時効が15年となったこの事件は、発生から14年が経過していました。

 

すると、ここで予想外の展開が!

 

なんと! 法が改正され、殺人罪の時効が撤廃されるのです!

 

こうしてこの、池袋大学生殺人事件は、無期限で捜査が行われることになりました。

 

邦三郎さんにとっては、願ってもない幸運でした。

 

しかし、その表情はなぜか? 明るいとは言えませんでした。

 

そして、迎えた2012年、邦三郎さんは、警察庁を訪れます。

 

それは、警察にあるお願いをするため。

 

邦三郎さんは、警察に頼み込みます。

 

「捜査を打ち切ってくれ」

 

殺人罪の時効撤廃は、今回の事件の他にも、世田谷一家殺人事件などに大きな影響を与えました。

 

この法改正は、被害者遺族の希望になったのです。

 

ところが、邦三郎さんにとっては、この変更は受け入れ難いものでした。

 

それはまた、彼が所属する「犯罪被害者家族の会」通称Poenaの理念でもあったんです。

 

彼らが指摘しているのは、今回の池袋殺人事件に時効の撤廃を適用するのは、近代の刑法の原則となる法の不遡及に反しているのでは?ということなんです。

 

この法の不遡及という概念は、新しく定めた法令をすでに終わった事柄にさかのぼって適用してはいけないという考え方なのです。

 

例えば、たった今、たばこを吸うことを禁止する法律を制定したとして、過去にさかのぼってたばこを吸っていた人を全員逮捕するとしたら、この先またどんな法律が出来て自分も同じ目に合うのか、わかったものではないですよね。

 

苦渋の決断だったと思います。

 

「自分が被害者遺族だからといって、大事な刑法の原則をねじ曲げてはならない」

 

正義感の強い邦三郎さんは、このように考えたのです。

 

また、理由はもう1つありました。

 

それはきっと、彼が被害者の立場だから見出せた結論。

 

警察の人員は有限であり、この事件のほかにも解決を急いでる事件が無数にある。

 

そんな中、何年捜査しても進展しない事件にいつまでも大事な人手はさけない。

 

被害者の遺族だからこそ、同じ立場の人の気持ちが分かり、このような決断に踏み切ったのでしょう。

 

そして、邦三郎さんはまた、こんな言葉も残しているんです。

 

「公共の場で多くの人が見ている中で、犯人が捕まらないことが問題。120人以上が犯人を見ている。1番感じたのは、皆が帰ったことなんだ」

 

この発言の真意とは一体?

 

本当の加害者

 

1996年4月11日、午後11時30分、東京池袋駅、100人以上の人間がごったがえしている満員のホーム、悟さんは、男と揉めていました。

 

すると、

 

『ヤメロオーっ!』

 

このトラブルを目撃していた人物Aさんが叫びます。

 

悟さんは声に反応し、振り向こうとしました。

 

そして、そのタイミングでちょうど男が平手打ちを発動し、キレイに命中してしまうのです。

 

しかし、先程叫んだ声の主Aさんは、悟さんのもとに駆け寄ったリはせずに、どこかへ行ってしまうのです。

 

その後、山手線のホームにはちょうど電車が・・・

 

男は乗り込んで逃走を図ります。

 

そして社内には事態を察してその男に注目した人物Bさんがいました。

 

しかし、そのBさんは、日暮里駅で電車を降ります。

 

わざわざ男の行方を見守ったりはしません。

 

そのため、目撃情報はここで途絶えるのです。

 

以後、犯人は行方不明に・・・

 

一方、悟さんの周囲にはかなりの人だかりが出来ていました。

 

人数にして30人ほど。

 

ですが、誰も救急車を呼びません。

 

駅員が気がついてようやく通報した頃には、ある程度の時間が経ってしまうのです。

 

そして、救急車が到着した時に残っていたのは高齢の女性がただ1人だけでした。

 

邦三郎さんは語ります。

 

「もっと早く救急車を呼んでいたら、息子は助かっていた」

 

初動捜査ではまず、目撃証言を集めました。

 

似顔絵を描けるぐらいの情報は集まったのですが、ホームには100人以上の人間がいたにも関わらず、捜査の協力者はなんと! 10人弱ほどだったのです!

 

2人のトラブルを止めていれば・・・

 

犯人の行き先を追っていれば・・・

 

すぐに救急車を呼んでいれば・・・

 

捜査に協力すれば・・・

 

この事件が発生し、悟さんが亡くなり、今も未解決なその理由

 

それは、人々の無関心だったのです!

 

いまだに解決されないこの池袋大学生殺人事件

 

この事件はもしかすると、現場に居合わせた誰かの力で防ぐことができた事件だったのかもしれません。

 

 

う〜む、周りの人の協力があれば本当に防げた事件だったのかもしれません。

 

池袋駅構内大学生殺人事件犯人の似顔絵

そして、ここまで犯人の顔、特徴がわかっているにも関わらず、未だ捕まえることが出来ないことを不思議に思います。

 

もしかすると、時効が撤廃になったことを恐れて、自宅にこもり外に出なくなったのか? それとも海外逃亡しているのか?

 

今はコロナ禍で↑画像にマスクをしているでしょう。

 

私も邦三郎さんと同じ息子を持つ親として胸がしめつけられるほど、気持ちが分かります。

 

早くこの犯人が捕まることを祈ります。

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